金魚の養殖が盛んで、金魚すくいの全国大会も開催される奈良県大和郡山市。
大和郡山市はなぜ金魚のまちになったのか?
今回はその疑問に答えたいと思います。
こんな人にオススメ
- 大和郡山市の歴史に興味がある
- 金魚の歴史に興味がある
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金魚の歴史
なぜ大和郡山市が金魚のまちになったのか?という疑問に答えるためには、金魚の歴史から説明していかないといけません。
金魚のふるさとは中国大陸の南の方と言われています。
今から約1,500年前、野生のフナの中から赤色のものが見つかりました。
当時、赤色の魚が珍しかったようで、金魚は観賞用の魚として飼われるようになりました。
こうして中国で観賞用の魚として定着した金魚が、日本に金魚が伝来したのは文亀2年(1502年)、室町時代中頃と言われています。
日本でも金魚は観賞用として飼われ、自分の金魚を持ち寄って、見た目を競い合うなどして可愛がられていたようです。
大和郡山と金魚
いよいよ大和郡山と金魚の話になります。
大和郡山の金魚の歴史は、享保9年(1724年)に柳澤吉里が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まりました。
なので2024年に大和郡山に金魚が伝来して300年となります
柳澤吉里の家臣であり、に金魚の飼育に長けていた横田又兵衛が持ち込んだと言われています。
そして金魚は武士の趣味として飼われはじめ、しだいに町人たちの間にも広まっていきました。
夏になると金魚売りが町を行きかい、これが夏の風景の一つになったとのことです。
金魚の養殖
では、なぜ大和郡山で金魚の養殖が盛んになったのでしょう?
明治時代になると、郡山藩の最後の藩主、柳澤保申が職を無くした武士を救うために、金魚の生産をすすめました。
wikidpeiaより引用
柳澤保申は以下のような政策を進めました。
柳澤保申の政策
- 金魚の研究所「柳沢養魚研究所」を設立
- 金魚の品種改良を進める
- 金魚の販売先の拡大
- 現奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供
金魚の養殖の父のような方ですね。大和郡山市民は顔を覚えておいてあげてください。
大和郡山で金魚の養殖が盛んになったのは、柳澤保申の政策が大きく影響していることは間違いありません。
しかし、大和郡山が金魚の養殖にふさわしい環境であったことも、理由の一つのようです。
大和郡山の環境
- 農業用水池がたくさんあった
- 自然発生するミジンコが金魚のえさとして役立った
まとめ
- 金魚の起源は約1,500年前の中国
- 日本に金魚が伝来したのは文亀2年(1502年)、室町時代中頃
- 大和郡山に金魚が伝来したのは享保9年(1724年)、柳澤吉里の家臣である横田又兵衛持ち込んだと言われている
- 職を失った武士を守るために、柳澤保申が金魚養殖をビジネスとして盛んにした
今、金魚の養殖をされている方のご先祖様は武士の可能性が高そうですね。